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伊能忠敬のエピソードとおすすめ伝記本 | 日本地図を作った測量家

17年間に及ぶ測量で日本地図を完成

小学校の社会、歴史科目で習う伊能忠敬という人物。どんなに地理や歴史に疎い人でも、名前だけは聞いたことはあるという人がほとんどなのではないでしょうか。

今から約200年前、江戸時代後期に、当時としては極めて正確な日本列島の姿を明らかにした人物です。航空写真もない時代、自分の足だけで約17年の歳月をかけて日本地図を作り上げました。伊能忠敬の生涯と地図作りの17年間を振り返ってみましょう。

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伊能忠敬の生い立ち

忠敬は1745年に今の千葉県、九十九里に生まれました。 幼い頃から学問好きで、勤勉だったと言われています。1762年の夏、東金で土地事業があり、忠敬は現場監督を頼まれました。その仕事ぶりが評判になり佐原の伊能家へ婿入り、伊能家当主となり、佐原で家業のほか村のため名主や村方後見として活躍しました。

伊能家は代々名主を務める家柄で佐原でも最も有力な商人でした。主に酒造業を営んでおり、現在でも小江戸佐原の街並みの一角に、店舗・正門・書院・土蔵が国指定史跡として残っています。

隠居、そして天文学・暦学の開始

伊能家に婿入りして33年、その後50歳で隠居することになります。しかし、日本史上に名を残す、伊能忠敬としての業績はここから始まることになるのです。

江戸に住み自分より19歳も若く、幕府で暦を作る役人、高橋至時(よしとき)の弟子になりました。忠敬はこの出会いから、日本全国測量という道が開かれるようになったのです。暦学理論と天体観測を熱心に学び、測量の技術を身につけました。

緯度の計測と第一測量

伊能忠敬

伊能忠敬

当時幕府では、「緯度の1度はどれくらいか?」というのが問題になっていたと言われています。暦を正確にするには、地球の大きさや日本の緯度、経度を知る必要があったからです。

1度の距離を測るには、江戸から蝦夷地までの距離を測れば、より正確な値を求められるのではと考えます。そして、ついに1800年、江戸から蝦夷地までの測量が始まります(第一次測量)。この時の測量は一定の歩幅(70cm)になるに歩き、複数の人間の歩数の平均値から距離を計算していくという方法でした。

毎日40kmを移動し、蝦夷地の滞在は117日間にも及びました。蝦夷地の地図は江戸で大変高く評価されたと言います。

第十次測量までに全国を巡る

蝦夷地から戻り、翌年1801年には第二次測量を開始します。

まずは伊豆半島を測量、その後は東北地方太平洋側に沿って青森を目指します。今回は蝦夷地で用いた歩幅による測量ではなく、一間ごとに印を付けた縄を使う方法に変更しました。また幕府にこの功績が認められる形で、第三次、日本海側の測量からは予算が与えられることになります。

その後も東海、北陸、近畿、中国、四国、九州、そして伊豆諸島と全国各地を測量します。1815年の第十次測量では江戸の街を正確に測り、これが最後の測量となりました。

日本地図の完成

大日本沿海輿地全図

大日本沿海輿地全図

測量こそ終えたものの、伊能忠敬本人は地図の完成を見ることはなく、1818年に74歳で生涯を終えました。

しかし、忠敬の死は公表されず地図製作は続けられ、1821年についに完成を迎えます。高橋景保は、忠敬の孫・忠誨と下役一同をともなって、江戸城の老中・若年寄の前に地図を提出し閲覧に供したと言います。大図214枚、中図8枚、小図3枚からなる「大日本沿海輿地全図」が幕府に納められたのです。

その後1821年9月4日、忠敬の喪は発せられました。この伊能図は長らく国家機密として門外不出でしたが、現在は国宝として上野の国立博物館や佐原の伊能忠敬記念館で展示されており、見ることが出来ます。

ちなみに、当時としては、あまりにも正確なこの地図は後に「シーボルト事件」を引き起こしています。しかし、これは伊能図が日本の測量技術の高さを認識させるきっかけにもなりました。

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「伊能図」より古い「赤水図」

赤水図

赤水図

余談ではありますが、伊能忠敬が作った日本地図より、さらに古い地図が存在します。

江戸時代中期の漢学者、長久保赤水によって作られた「改正日本輿地路程全図」通称「赤水図」です。1779年に出版されていますので、「伊能図」より40年以上も前に作られています。

しかし、教科書などでは伊能忠敬が日本で最初に地図を作った人として紹介されています。それは長久保赤水は測量ではなく、各地の文献などを元に地図を作製したからです。ただ、それでも日本列島の形をかなり忠実に再現し、地名も多く反映されていました。

特に伊能図が国家機密として長らく一般の目に触れることがなかったことから、大衆にはこの赤水図が日本の地図として多く流通していました。長久保赤水と同じく、伊能忠敬よりも前の時代に地図を作った「森幸安」、奈良時代の僧侶「行基」については下の記事で紹介しています。

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伊能忠敬を本でもっと詳しく調べてみよう

2018年は伊能忠敬の没後200年の年でした。博物館などで企画展示が行われたり、テレビ番組などで特集されることのあり、耳にした人も多いのではないでしょうか。

名前を学校で習ったきり、それ以来という人も多いことと思いますが、50歳から偉業を成し遂げた伊能忠敬の生き方は、現代日本人の大きな勇気を与えてくれるでしょう。是非、読んでもらいたい本を紹介します。

 

伊能忠敬: 日本を測量した男

緯度一度の正確な長さを知りたい。忠敬が奥州から蝦夷地にかけての測量の旅に向かったのは、一八〇〇年、すでに家督も譲った五十五歳の春。傾きかかった佐原の名家に養子に入って家業を建て直し、隠居後は天文・暦学に精進し、身分の軋轢をはねかえし、初めて日本の正確な地図を作成した晩熟の男の生涯の軌跡。筆者の童門冬二氏が丁寧に史実に基づいた資料を調べながら、伊能忠敬の人柄を丁寧に描きます。
 

学習漫画 世界の伝記 NEXT 伊能忠敬

お子さまに是非読んでもらいたい1冊。世界の偉人たちは子どものころ何をしていたのか、何を考えていたのか、わかりやすいマンガや解説で読めるシリーズです。商家に育ち、天文学を志したのは50歳を過ぎてから。地球の大きさを知ろうとしたのが、いつしか正確な日本地図を作製することに。学ぶのに遅すぎることはない、ということを実感させてくれます。
 

図説 伊能忠敬の地図をよむ

アメリカ議会図書館207枚、歴史民俗博物館2枚、海上保安庁海洋情報部147枚、東京国立博物館3枚…新たに発見された地図を含む、驚異的な伊能図の全貌を図説で紹介します。しかも、ただ地図を紹介するだけではなく、地図作成に至る経緯や時代背景、測量方法、測量道具、苦労話、その後の地図の行方など様々なエッセンスが含まれており、“伊能忠敬”の偉業を様々な角度で知ることが出来ます。伊能忠敬研究会名誉会長を務める筆者、渡辺一郎氏の渾身の1冊。
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まとめ

ロシアなど列強国が日本近海に現れていた時代、国防のために地図の必要性は認識されつつありましたが、自ら天文学や測量法など学び、地球の大きさを測ることを思いついたのが、始まりと言われています。

とはいえ、この日本地図が明治維新を経て、欧米列強と並び立つ日本の近代国家入りに大きな貢献を果たしたことは言うまでもありません。そして、緻密な地図製作の精神は現代に至るまで引き継がれているのです。

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